こんにちは。
「禅定(ぜんじょう)」という仏教用語があります。
坐禅や瞑想において、精神を集中し雑念を払った状態です。単に「禅」とも言われ、自我を無にすることで、おおいなる智慧を得るともされています。
私はここ最近、この「禅定」が登山の意味もある事を知りました。登山を嗜む私としては、これは、なかなか衝撃でした。
なんでもその昔、霊山と呼ばれる山々では山岳信仰が起こり、登山自体が修行とされ、「禅定」「禅定道」などと呼ばれるようになったそうです。
例えば、石川県の白山、富山県の立山、山口県の禅定寺山があるそうです。
もちろん、現代においても山岳信仰や修験道というものは連綿と続いていますし、私も山々に神々しいものを感じています。
そんな事も知らず、私は若き日に白山も立山も登頂した経験があります。趣味として行っている登山ですが、どうやら知らず知らずのうちに、登りながら「禅定」に近いことをしていたようです。
思えば確かに、登山をしている最中は、だんだんと疲れや息切れ、高山では酸素濃度の低下もある為でしょうか。半ば朦朧とした経験もあります。そして、思考がだんだんと「今この瞬間」になってくる感覚があります。なんとなく「無」にも近く、今ただ、山登りをしている自分の肉体がある。そんな感覚でしょうか。
かつての先人たちは、今ほど整備されていない登山道を、今ほど頑丈な登山靴などの装備が無い状態で極限に近い意識の中で登山をしていた事でしょう。それが「禅定」と呼ばれる事に、頷けるものがあります。
「登山好きにわるい人はいない」というのも関連があるかもしれないです(笑)
さらに深堀すると、さらにいくつもの禅定のルートやスポットがあるようです。
□白山の禅定道は3つのルート
・加賀禅定道
・越前禅定道
・美濃禅定道
<参考ページ>
http://www.shirayama.or.jp/hakusan/belief02.html
□立山の六禅定
・渡り禅定
・鎖禅定
・地獄禅定
・極楽禅定
・走り禅定
・石積禅定
<参考ページ>
https://rambling.jp/tateyamashiko/
登山愛好者にとっては、様々な切り口で山が楽しめるかもしれません。
「登山=禅定」という事を知った今、私にとっての今後の登山は意味合いが少しちがってきます。
以上、お読みいただきありがとうございました。